"the shape of water" 映画を見て
『シェイプ・オブ・ウォーター』を見て胸がいっぱいになりました。
「私と、または私たちと異質だから受け入れない、わかろうともしない」という姿勢が私たち自身の世界の彩りをいかに貧困にしてしまうか。
不寛容な社会への風刺の効いた映画でありながら、単純にファンタジーとしてもラブストーリーとしても素敵な映画体験だった。
主人公の「聞こえるけれど声が出せない」という設定は秀逸で、マイケル・シャノン演じる権力者(声の大きい男)との対比はわかりやすすぎるくらい。
そして、ギレルモ・デル・トロ監督の怪獣愛溢れる謎の生き物は、最初にその全貌が明らかになった時、とても不安だった。
家に帰ってあいつがベッドで寝てたら、腰を抜かすどころの騒ぎではないと思う。
よく確認もせずに「誰か、やっつけて!」と思ってしまう。だって怖い。
私自身の、未知のものに対して自己防衛に走るという弱さが試されたのだ。
それが、主人公の目を通してだんだんとその美しさが見えてきてしまう。
というより、美しいとか美しくないとかの価値基準でジャッジするのではなく、そこにいる存在のそのままを知りたいと思えてくる。
声によって支障なく日常のコミュニケーションを取れるはずの人たちが越えようともしなかったコミュニケーションの壁を、主人公はあまりにもやすやすと超えてしまう。
平田オリザさんの『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』という本の中に
「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。
という一節があって、私は本当にそうだなと思っているのだけど、声を持たない主人公イライザは数々の「伝わらない」という経験を通して、強烈な「伝えたい」という情熱を胸に秘めている。
だから、卵を渡したり、レコードを一緒に聞いたり、できることを試してみる。
所詮はわかりあえないという諦めの前提のもと、それでも「わかってもらえなくても伝えたい」という彼女の願いは痛烈だ。
"You'll never know〜〜"という歌詞に乗って、彼女は自分の愛が相手には伝わらないだろうという絶望の中、想像の中で彼とダンスを踊る。
でも、彼女の気持ちは確かに伝わっているのだ、と思わせてくれるカタルシスはこの映画最大の救いで、希望だ。
そして、イライザの同僚ゼルダが長年コミュニケーションを放棄している夫に放った
「わかろうともしないくせに」
という台詞は私にも社会にも向けられたものだ。
私たちはわかりあえるものじゃないけど、わかろうとすることを放棄してはいけない。
映画が終わる頃には、謎の生き物の堂々とした姿になんだか気高さと色気を感じ、私も虜になっていました。
現実はあんなお人好しの登場人物ばかりではないかもしれないけど、でも一人一人の「伝えたい」気持ちと「わかろうとする」気持ちがちょっとだけでも繋がれば素敵だと思ってしまった、まるで優等生のように。自分の優等生のような考え方に嫌気が差しながらもそう思ってしまった。
まだまだ私の知っている言語体系の外側にある素敵な(「素敵」という私の知っている言葉でも規定できないような)物やことや考え方があるのかもしれなくて、それに出会った時、すぐには言葉で価値を縛り付けずに、ありのままを見る目を手にいれたいです。