restlessにさせるもの 山田詠美『学問』

山田詠美さんの『学問』という本が好きで、たまに読み返す。

で、圧倒されてしばらく他のことが手につかなくなる、ということが毎回起こる。

 

ガス・ヴァン・サントの映画に『restless』というのがあって、『永遠の僕たち』という謎の邦題をつけられているんだけど、『restless』ってタイトル最高だなーと思っている。

どうしようもなく心が囚われてしまうものがあって、その存在のせいでいつも「気が休まらない(=restless)」。

「その人がこの世からいなくなってしまったら」と考えること自体が恐ろしくてどうしようもない。だから常にrestless。

まあ、この映画自体は男性的な甘いロマンチシズム満載で、手放しで好きなわけじゃないけど、restlessってタイトルがとにかく好きだ。

 

『学問』を読んでいるとまさにrestlessになってしまうのだ。

この小説は、小学校の同級生男女四人組が、友情とも恋愛ともつかない絆を保ちながら成長し、青春の眩しいひと時を生きる姿を描いたものだけど、もちろんこんな「商業用あらすじ」みたいな言葉で簡単に説明できないものばかりが詰まっている。

 

なによりも、私を惹きつけて止まないのは、主人公・仁美にとってあまりにもスペシャルな同級生「テンちゃん」の存在だ。

テンちゃんの天性の魅力は読んでいるだけでワクワクする。

この言葉を使うことが、この小説の読者として最も無粋だと知りながら私は思う。

「テンちゃんが大好きだ!」

気高くてかっこよくて、意地悪で優しくて繊細で、「自分は特別だ」と思わせてくれて、でも計り知れなくて、どうしようもない気持ちにさせるテンちゃん。

 

仁美のテンちゃんに対する思いは、憧れでもあり尊敬でもあり、親分子分のようでもあり、自分自身のように感じることもあったりする、とにかくスペシャルなものだけれど、友情とか愛とか差し置いて一言で言うなら「絶対に死んじゃ嫌な人」がテンちゃんなのだ。

この人が死んでしまったら、世界は壊れてしまうんじゃないか、と思う相手であり、だから節々で仁美は思う。

「テンちゃんなんか、死んじゃえ」

死んじゃえと言われた相手は絶対に死なないから。

これは祈りなのだ。テンちゃんがいる限り、restlessに祈り続けないといけないのだ。

 

だが読者にとって大変ショッキングなことに、章を進む度に「雑誌の記事」という形を借りてそれぞれの登場人物のその後の死に様を突然知らされることになる。

思わぬタイミングで思わぬ人物の死亡記事を突きつけられる度、小説の中の現在軸で青春を生きているその人物への強い愛情と強烈な切なさを感じてしまう。

そして、やがて突きつけられるであろうテンちゃんの死を予感しながら、そのせいでどうしようもなく輝いている今を生きる彼に、逃れられないほどに心を囚われてしまう。

仁美と同じように祈りを捧げずにはいられない。

 

 

小説のクライマックス、仁美が長い間敵わないと思い続けた相手、テンちゃんとの関係をドラマチックな展開で「おあいこ」にした後、とうとう仁美は恐ろしさのあまりに長年禁じていた言葉「死んじゃえ」と逆の言葉を口にしてしまう。

そして残酷すぎるタイミングでその記事は挟まれるのだ......。

 

この本を自慰行為に関する官能小説のようにだけ捉える人もいるけれど(もちろんそうでないという人が大半だとは思う)、テンちゃんという特別な人を軸にして、主人公が人との向き合いを深く「学び、問い」、恋とか友情とかの言葉に頼らずにストイックに見つめた小説だと思っている。

それに、もっともっといろいろな方向からも読むことができる、豊かすぎる小説体験をくれる本だ。この小説の言葉以上にこの小説を語ることなんてとてもできない。

なにより大好きすぎて、没入しすぎてとても客観的になんて語れない。

ただ、読む度に感動とあまりにも大きな喪失感に強く心が囚われて、抜け出せなくなってしまう。

だからどうしてももう一度テンちゃんに会いたいな、と思ってまた読み始めてしまうのだ。

 

もし自分の好きな本から一冊選んで、その世界の中で生きることになるとしたら、この本を選ぶかもしれない。

でも、そんなことしなくたって、読めば本の中で生きているような感覚になる本なのです。

私は美流間で青春を過ごした、そう錯覚する本です。

 

ああ、この本のあらゆることに関して、全然何も言えてないな。

大好きだってことをもっと言葉にしたい。

ああ。

 

読み終わった後は、いつも一番幸せなページに戻って締めくくるようにしている。

誰にもめくれない極彩色の絵本ような世界の中、蓮華草の鎖で双子のように繋がれた仁美とテンちゃんを思って、restlessになりすぎた気持ちを落ち着けるのです。

 

 

"the shape of water" 映画を見て

シェイプ・オブ・ウォーター』を見て胸がいっぱいになりました。

 

「私と、または私たちと異質だから受け入れない、わかろうともしない」という姿勢が私たち自身の世界の彩りをいかに貧困にしてしまうか。

不寛容な社会への風刺の効いた映画でありながら、単純にファンタジーとしてもラブストーリーとしても素敵な映画体験だった。

 

主人公の「聞こえるけれど声が出せない」という設定は秀逸で、マイケル・シャノン演じる権力者(声の大きい男)との対比はわかりやすすぎるくらい。

そして、ギレルモ・デル・トロ監督の怪獣愛溢れる謎の生き物は、最初にその全貌が明らかになった時、とても不安だった。

家に帰ってあいつがベッドで寝てたら、腰を抜かすどころの騒ぎではないと思う。

よく確認もせずに「誰か、やっつけて!」と思ってしまう。だって怖い。

私自身の、未知のものに対して自己防衛に走るという弱さが試されたのだ。

それが、主人公の目を通してだんだんとその美しさが見えてきてしまう。

というより、美しいとか美しくないとかの価値基準でジャッジするのではなく、そこにいる存在のそのままを知りたいと思えてくる。

 

声によって支障なく日常のコミュニケーションを取れるはずの人たちが越えようともしなかったコミュニケーションの壁を、主人公はあまりにもやすやすと超えてしまう。

平田オリザさんの『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』という本の中に

「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。

 

 

という一節があって、私は本当にそうだなと思っているのだけど、声を持たない主人公イライザは数々の「伝わらない」という経験を通して、強烈な「伝えたい」という情熱を胸に秘めている。

だから、卵を渡したり、レコードを一緒に聞いたり、できることを試してみる。

所詮はわかりあえないという諦めの前提のもと、それでも「わかってもらえなくても伝えたい」という彼女の願いは痛烈だ。

"You'll never know〜〜"という歌詞に乗って、彼女は自分の愛が相手には伝わらないだろうという絶望の中、想像の中で彼とダンスを踊る。

でも、彼女の気持ちは確かに伝わっているのだ、と思わせてくれるカタルシスはこの映画最大の救いで、希望だ。

 

そして、イライザの同僚ゼルダが長年コミュニケーションを放棄している夫に放った

「わかろうともしないくせに」

という台詞は私にも社会にも向けられたものだ。

私たちはわかりあえるものじゃないけど、わかろうとすることを放棄してはいけない。

 

映画が終わる頃には、謎の生き物の堂々とした姿になんだか気高さと色気を感じ、私も虜になっていました。

現実はあんなお人好しの登場人物ばかりではないかもしれないけど、でも一人一人の「伝えたい」気持ちと「わかろうとする」気持ちがちょっとだけでも繋がれば素敵だと思ってしまった、まるで優等生のように。自分の優等生のような考え方に嫌気が差しながらもそう思ってしまった。

まだまだ私の知っている言語体系の外側にある素敵な(「素敵」という私の知っている言葉でも規定できないような)物やことや考え方があるのかもしれなくて、それに出会った時、すぐには言葉で価値を縛り付けずに、ありのままを見る目を手にいれたいです。

思い出売ってコメダでお食事

10代の頃から集めて大切にしていたCDのほとんどを売ってしまった。段ボールに詰めたCDをガラガラに乗せて電車に乗り、新宿のディスクユニオンで売却した。査定に3時間くらいかかって、その間コメダ珈琲でコーヒーと馬鹿でかいハンバーガーを食べた。

売ってしまったCD1枚1枚に「どうしても欲しくて買った」瞬間があったわけで、当時同じ音楽を聴きながら過ごした人や行った場所、思い出も一緒に売っているような後ろめたい気分で、買取カウンターに段ボールを乗せた時、CDたちと目も合わせられなかった。

CDは5万円くらいで売れることがわかった。30枚ほどには値がつかないというので、その中から本当は売りたくないものをサルベージした。私にとっては胸を締め付けられるような思い出の詰まったBECKのCDはタダでも売れないらしく、mellow goldやodelayが運命的にまた私のもとに戻ってきた。

査定の詳細が書かれた紙を見て、思わず高額のものに目がいってしまった。廃盤になっているPUNPEEのCDや初回限定版の星野源は7000円前後。一番安くて20円と査定されたものはMERCURY REVやYETII、レッチリやジョンのソロアルバムなど...。私は買取カウンターで査定用紙を食い入るように見ながら高いアルバム安いアルバムを見極めた。そして、ふと自分のあさましさが恥ずかしくなった。

そそくさとお金をもらって寒さに震えながら家に帰った。帰り道、絶対に売ってはいけないものを売ってしまったのではないだろうかという気持ちになった。ストリーミングで音楽を聴いている今、CDではもう聴かないのに、急に手放してはいけないものだったという感覚に襲われた。コメダ珈琲で食べた巨大なハンバーガーを、私は素敵な音楽の思い出と引き換えに手に入れたのではないかと思えてきた。その後コンビニでお菓子を買った時も、星野源やPUNPEEが私との手切れ金として奢っているように思えてしまった。

でも仕方ないんだ。引っ越し先には場所がないんだ。仕方ないんだ。そうやってCDを売った日からずっと考えている。